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Running Out

2011年05月03日 22:25

 こんつは、ハンキー・ドリー・ハンクです。
あー、親父を看取るまでの三日間はひどく長く感じ、その後はあっつーまに日々が過ぎた感覚があります。
帰京した翌日からジョグを再開しましたが、追い込み型(10~30秒、全力疾走を織り交ぜる走り方)はせず、ちんたら走ったのに膨ら脛とハムストリング、背筋の筋肉痛がとれません。
人間の筋肉の大半がヘソより下にある手前、時間は確実に経過したのだと痛感しとります。
元はダイエット成功後、体型維持のために続けてきたもんですが、今や走るのを辞めると何かが終わっちまう気持ちです。

 そこらの貧乏人。その貧乏人の父親が偉人さんであるわきゃねーです。
ただ、悲しみより勇気を貰ったんだと思っとりまして、その点は個人的に誇らしいんじゃなくてですね、僕や親父の故郷が誇らしいのです。
意識不明に陥る寸前、ベッドの上で仁王立ちになった親父はひどく大きく見えました。
息を引き取るまで錯覚だと思いこんでいたんですが、納棺の際、痩せきってったっつーのにやっとこ納めたときに身長が177cm、もしかすると180cmはあったんだと思い出しました。
また、火葬後、白血病を患っていたにもかかわらずキレイに骨が残ったこと、納骨の際、各部位を割らなきゃ墓に入らなかったことを考えますと、とにかく骨太で頑強な体の持ち主だったと理解できました。錯覚じゃなかったんですね。

 親父が亡くなった翌日、看病疲れからくる風邪をこじらせてお袋どんが肺炎で入院しました。
お陰で告別式が終わった後は毎朝四時に起きて仏壇に水と飯、供物をあげ、家の掃除、委任状持って各種手続きにおわれました。
僕の親父っつーしとは、健常な頃は着る物に良いセンスがあったんで形見にスーツやジャケットを貰い受けようと思ってたんですが、そんな暇はありませんでした。
てか、親父の洋服の殆どを保管したクローゼットがある部屋や親父の臭いが残ってる部屋は飼い猫の縄張りでして、迂闊に入ると襲われるっつー理由もありますが。(個体差はあるが、ロシアンブルーはシャムと野生の山猫から派生したらしく飼い主に忠実である代わりに、縄張りを侵害されそうになると豹変して獰猛になる。)
でも、こっそり着てみたら二回りはサイズが大きかったですが。
僕ぁ172cmの割に腕が長ぇんで、ワイシャツを形見にいただきましたが。
あと、ブランドに拘らねー性格で、まだ「ウチはオーダーメイドか、そこらのブランド販売店じゃ手に入らないもんを作って売ってんだよ!」っつー店が多々あった頃に買った革靴とネクタイをいただきました。
特にネクタイは「こりゃ海外のデザイナーじゃ思いつかないもんだ」と、洋服に疎い僕でもわかるもんでした。
万が一のことを考え、礼服だけは持って帰省しましたがワイシャツとネクタイ、珍しい動物の皮らしい靴を身につけて葬儀にいどみました。

 あったーくることも多々あり、また、ドドドド田舎ゆえに「その考えは五年前までだ」と僕が上京するきっかけになった故郷の視野が狭く陳腐な見栄に拘る風潮に愚痴りたいとこですが、そこは置いといて。
僕の故郷ってのは二十年前は人口一万人以上はいた漁師町ですが、現在は六千人をきろうとしとります。結果、函館市に吸収されちまいました。市街地から車で一時間近く離れてんのに。
それもこれも、少子化もありますが、成人した輩の殆どが北海道内の都市部に出て戻ってこなくなったことが要因です。
どこのドドドド田舎もそうでしょーが、一旦出て行った輩は二度と戻ってこなかったり、せいぜい形式上として墓参りに帰省するくれーです。
僕ぁ閉塞的な空気は今でも嫌いですし、今回も「物価も首都圏と大差ねえのにいつまで昔のままよ」と腹が立ちます。
が、僕が帰省する理由の一つは「この辺鄙な土地が俺の故郷であり、辺鄙であるがゆえの気骨と風土がある。俺はそれを誇りに思っている」っつー想いがあります。
元々は能登半島から移住してきた漁師らが1839年に発案し、今じゃ当たり前である沿岸の魚を効率的に捕獲する大謀網の発祥の地であり、数ある昆布の名産地でありながら最も肉厚で希少価値がある昆布を採取できる土地です。
フツーに考えれば人が定住するよーな地形じゃねーんですが、そーやって発展してきたっつーのは移住してきたしとじとの反骨精神の現れだと思っとります。
んなわけで、今やそーいった歴史は薄れとるでしょーが、血の中にその強靱さは遺っとると信じとります。いや、遺ってます。
現在、名称は函館市尾札部町になっとりますが、南茅部っつー地域は存在しとります。
親父の告別式の挨拶にて、葬儀屋が用意したありきたりな台本を半分読みつつ途中でアホらしくなったんで、即興でぶたせていただいたと同時に参列してくださったしとじとに約束したんで書かせていただきます。

南茅部の人間は強い。

多くは内陸部に移住して開拓したでしょーが、前述のとーり辺鄙な土地に根を張り一時は隆盛した歴史があります。
「これがこの土地の習わし」なんざクソでも食らえっつー。
何も無い猫の額ほどの土地から始まったのは、ひとえに「負けてたまるか!」っつー想いがあったからでしょーが!と。

 親父が亡くなる一ヶ月ほど前、唐突に「青函連絡船のDVDが観たい」と電話がありました。
調べた結果、NHKがTV番組として収録した『さようなら青函連絡船~最後の就航~』っつーもんがVHSでソフト化され、十年以上前にDVDで再発されたもんしか見つかりませんでした。
当たり前ですが、とっくの昔に廃盤でして、映画作品でもねーんで再発されるとは思えません。
僕ぁネットや中古屋で探しまくってなんとか手に入れましたが、結局親父に見せてあげるこたぁできませんでした。
内容は、陳腐なローランド臭満載なBGMに連絡船とそこから見える景色を収めたもんで、決して映像作品として優れたもんじゃねーです。
親父がこりを観たくてたまらなかったのは、祖父と共に本州へ出稼ぎに赴き、連絡船の中で乾物を囓りながら酒を飲み、函館港に着岸する際に「帰ってきたぞ!」と思い、無駄金を使わず函館で掛け蕎麦をすする祖父の姿を思い出してのことだったんでは、と。
三月十一日の午後二時四十六分。東日本大震災が発生し、僕ぁ実家に電話したところ親父は「ああ、少し揺れただけだ」と言いました。
実際は避難勧告が発令され、車で高台まで避難したそーです。逃げなかったのは我が家だけだったと知らされました。
ありきたりな想いじゃなく、這って歩くのがやっとの自分は逃げ切れねーと思い腹をくくったんだと思いました。
現に、親父が亡くなった後、防災関係の資格を色々もっとった親父は、以前なら食料の備蓄や懐中電灯やらのメンテナンスは万全だったのにそれらはまとまってなかったですから。
ただ、今回僕が急な帰省と一ヶ月近い休職、震災直後に親父を入院させることができた恩人に対して昆布やらの海草類がまとめてありました。
お袋どんが退院し、何を送ろうとしていたのかたずねて発送しましたが、死ぬのを覚悟しつつ受けた恩はテメーができる範囲で返すっつー心構えを持っていた点に「お見事!」と思った次第です。
んなわけで、「南茅部の人間はこうでなくちゃならん!」っつー気骨を学ばせていただきました。

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